明石に置いてきたものを探しに行った話-2021.8-

「自分の生まれ育った場所って、今どうなってるんやろう。」

退職して自分の今までとこれからについて考える時間が増えて、ふとこんなことを思った。
わたしは大阪で育ったが、生まれは兵庫県の明石である。
そこで暮らしていたのは3歳くらいまでだったと思うが、何故かその頃の記憶が色濃く残っていた。家の近くを通るラーメン屋のチャルメラの音が怖くて、母お手製のキティちゃんのパジャマを着せてもらいながら咽び泣いていたことや、触らないでと忠告していた小さな葉っぱ付きのミカンの葉を、兄に目の前で無慈悲に引きちぎられて激高したことなど、なんでこんなこと覚えてんねんという記憶のアルバムが、わたしの頭の中にはたくさんある。この記憶の余力を他に回せていたなら、わたしはもっと難関な大学を卒業していたかもしれないなと、奥歯を噛み締める思いである。
例によって家族の誰より多くの記憶が残りすぎているあまり、記憶力にまったく定評のない兄からは、「それはもう被害妄想やろ。」と震えながら引かれる始末である。わたしは覚えていなさすぎるあなたに逆に引いているよ。
さて、今のわたしに時間はいくらでもある。わたしと同じく記憶力の良い父に、昔住んでいたアパートの住所を聞き出し、さっそく行ってみることにした。

自宅を出たのは昼の12時過ぎ。もっと早く出る予定だったが、知人から電話がかかって来て、つい長話をしてしまった。わたしは整体に行けば、そこの院長かスタッフにちょっかいを出される「AVやんけ」という事案によく遭遇するのだが、最近またそういうことがあり、その話に花を咲かせすぎてしまった。これについては気が向いたときにでもしたためようと思う。
明石に着くのは14時過ぎ。何も一番暑い時間帯に出なくても…という考えが一瞬よぎったが、強い気持ちと日傘を持って家を出た。
外に出たら、太陽がさっそく殺しにかかってきた。じりじりって聞こえとるんよ。わたしのことは一切焼かせないぞと、自ら作った陰にぎゅうぎゅうと体を押し込みながら駅へと向かう。
ひとつ疑問なのだが、日傘さしてない人の体っていったいどうなってんの?脳天に冷却装置みたいなのついてんの?もしそうならわたしにもつけて。改造して。炎天下の中、コンクリート地獄をノー日傘で飄々と歩く人を見ると、本当にいつも感心する。暑さに強い人と、そうでない人の違いが知りたい。

大阪駅から明石方面に伸びている電車に乗る。座れた。嬉しい。座れなかったら、人目もはばからずそれこそチャルメラが聞こえてきたあの時くらいの感じで泣きわめくところだった。長時間の電車ってそのくらい座りたい。途中、わたしの無知によって名もわからぬ大きな川を電車が超えていくのが見えた。陽に照らされた川ってきれい。流れによってキラキラ揺れる水面ってなんであんなにきれいなんだろうね。自分の瞳の光もゆらゆら動いて、心が洗われるような気持ちになる。ありがとう、地球!!

とか思ってたら次の瞬間には寝ていました。心洗われすぎ。いつも夜寝るのにあんなに苦労してるのに、昼寝だけは射殺されたんかくらいに秒速で寝落ちするのはなぜ?教えて、おじいさん。残念なことに首を地面とほぼ平行にして寝ていたらしく、首の右側がバキボキで悲鳴を上げている。この暑さの中、ずっとこのまま歩けってこと?加えて口から盛大にヨダレがこぼれてマスクの中に池を錬成していた。起きてすぐに、「絶妙に嫌なこと」の2つがわたしの身に起こっていた。生きるのって大変だね。

駅に降り立つと、さわやかな風がわたしの頬を撫でた。マスク池の不快感がわたしの活力を根こそぎ奪っていったけれど、移動のほぼすべてを睡眠に捧げたからか真夏の空の下でも元気だった。

明石の駅から幼少期に暮らしていたマンションへはバスを使って移動する。バスを待つ列に並んでいるとき、少しドキドキしている自分に気がついた。緊張しているんだ。わたしはここに何かを確かめに来たんだと、なんとなく感じていた。
今この瞬間を生きている自分の物事の捉え方、感じ方はいったいどこから来ているんだろう。何かを嬉しいと思う気持ち、何かに寂しいと感じる気持ち、何かを不安に感じる気持ちは、これまでの人生の積み重ねによってどう感じるかは人それぞれ違ってくるものだと思ったから。
わたしは今、変わらなきゃいけないと思って生きているところがある。目標設定をして、それに向かって突き進む人生もとっても豊かで素敵なものだったけれど、でもこのままの生き方じゃしんどいんだってことを、体調不良を通して、わたしの心と体が教えてくれた。自分は何をしているときが心から楽しくて幸せなのか、そういうことに耳を傾けてあげることをずっと後回しにしてきた気がしていた。
何度かエッセイに書いた気がするが、わたしは両親から多大に愛されて育ったと思っている。喜怒哀楽をこんなにも分け合いながら過ごせる家族は、そんなに多くないんじゃないかと、大人になって色んな人たちと時を過ごす中で感じた。ただ一方で、「我慢することは偉いこと」「遠慮することは相手を思い遣ること」そういう暗黙のルールみたいなものを、子どもながらになんとなくキャッチし、それを今も持ち続けて過ごしていることに最近気がついた。だからか、わたしはいつもなんとなく寂しい。小さい頃からずっと。そしてそれを口にすることができなかった。
「ひいろちゃんは我慢強い子やな」とよく父から褒められた。
誰かの期待に応え続ける選択を自分でしてきたことによって、頑張り続けることでしか自分自身を認めてあげられなくなっていた。たぶんしんどかったんじゃないかなぁ。
けれど、だからこそ生まれ育った場所に行って、何かを感じたかった。RADWIMPSも「何も持たずに生まれ落ちた僕」と歌っている。わたしたちは、本当に何も持たずに生まれてきたのだ。周りと比べて浮かんでしまう劣等感も、誰かへ依存したくないと自分に戦いを挑む気持ちも、誰にも嫌われたくないと感じる恐怖心も、得意も不得意も好きも嫌いもすべて、多くの人や社会と関わる中で、自分が周りと比べたり、周りにどう見られているかを無意識に感じ取って鎧のようにまとってきたものだ。何も持っていなかった、何かを持ちはじめた、あのはじまりの場所に行ったら、どんな風に感じるのかを確かめたかった。

ドキドキしながらマンション近くの大通りまで運んでくれるバスに乗り込んだ。外が見たくて、空いていた窓際の席に座ったけれど、ここでバスのクーラー設定バカ寒い問題に直面し凍える羽目になる。設定『急』しかないんか。座った席は直射日光がちょうど肌を突き刺す位置だったので、腕に日焼け止めを塗りたくるバケモノと化した。

バスが発車して、次々に街が移り変わっていく。記憶には残っていなかったけれど、この道や標識、建物の多くは、間違いなく一度は目にしたことのある風景なのだと思うと、とても不思議な気持ちになった。
バスを降りて父の教えてくれた住所をナビに入れ歩みを進めた。

マンションまでは長くて緩やかな下り坂が続いていた。帰りにはこの坂を上らないといけないのだなと思うと一気にげんなりしたが、この道を両親が幼いわたしたち兄弟の手を引いて歩いた時間があったのだと思うと、なんだか感慨深かった。暑い日や寒い日、荷物の多い日なんかは大変だっただろうな。幼いころに住んでいた街を訪れるというのは、色んなところに愛を感じることができる。当時の思いに触れられたような気がして、どこをとっても特別な場所に感じられた。

ナビが指す目的地とわたしの現在地が重なった。顔を上げると、白い縦長のタイルがビシッと整列して造られた壁のマンションがあった。ここだ。明確には覚えていなかったけれど、この感じ、間違いなくそうだと思った。中を覗くと、少し狭くて急な階段が見えた。ここでグッと、一気にあの頃に戻ったような感覚があった。ここの階段を1段1段、一生懸命上った左の突き当りにある201号室。そこで確かに、わたしたちは暮らしていた。階段を上りたいのにドキドキがおさまらない。朧げな懐かしさと、ここまで自分の足で来たんだという喜び、これまでに感じたことのない感情に今出会っていること、これから出会うかもしれない新しい気持ちへの高揚感。頭がクラクラした。この消えかかった白線の真横は、わたしたちを色んな場所に連れて行き、たくさんの思い出を持ち帰らせてくれた父のジムニーが駐まっていた場所だ。前からしか乗り込めないし、けっこう揺れるし、ハンドルをぐるぐるしないと閉まらない窓だったけれど、大好きな車だった。
日傘を畳んで、1段1段踏みしめるように階段を上る。なんだろうなこのわくわく感、緊張感。暑さと坂に疲れていたけれど、このときだけは何も感じなかった。蝉の鳴く声だけが、なぜかいつもより大きく感じられて、風や車の通る音はほとんど聞こえなかった。動いているのに止まっている。

ドアの前に立つ。ボロボロのビニール傘がかかっていたので、誰かがそこで暮らしているようだったが、物音はしなかった。不在なのかもしれない。知らない女が感慨深そうに自分の住む部屋をジッと見ているってめっちゃ怖いだろうなと思ったが、住人が不在であることに気を大きくしたわたしは、上ってきた階段を眺めたりドアの前にしばらく佇んだりした。だってもしかしたらもう二度とここには来ないかもしれないから。
部屋の前に立つと、ふいに寂しくなってきてしまった。何故だかわからないけれど寂しい。家族と過ごした場所に自分ひとりしか立っていない寂しさからなのか、当時隠した寂しい気持ちを教えてくれているからなのかはわからないけれど、嬉しいよりも寂しいが多く募って、重たくなって、気がつけば涙がこぼれそうになっていた。けれど胸があたたかくなるような真っ直ぐした何かもまた、確かに感じていた。考えてもわからないこと、説明できないことってたくさんあるんだろうな。深呼吸をして、ありがとうございますと小さく言ってマンションを後にした。

明石駅に戻った。駅に向かうバスがなかなか来ず、炎天下の中待ちわびてくったくただったので、スタバで休憩することにした。たくさん汗をかいた後のアイスコーヒーってめちゃくちゃ美味しい。ブラックコーヒーなんてちょっと前までぜんぜん好きじゃなかったのに。小さい頃、母が美味しそうに茶色い飲み物を飲んでいる姿を、訝しげに眺めていた自分のことを思い出した。そんな母は、今ではミルクたっぷりのコーヒーを好んで飲んでいる。どっちの美味しさも、今ならわかるよ。


数日後、実家に帰った。こっそり撮らせてもらったマンションの外観や、昔よく遊びに連れて行ってくれたらしい近所の児童公園、駅前の明石公園の写真を両親に見せた。懐かしいと目を細めながら、当時の思い出話をしてくれた。
「この滑り台あるやろ。お兄は怖がって滑り台の縁を持ちながらノロノロ滑ってたけど、ひいろはノーブレーキで下の砂場まで真っ逆さまやったわ。それも何回も。」
すごいな当時の自分。今は石橋を叩きに叩いた挙句、橋と地面の結合部分まで叩いて安全確認するような用心深さもあるわたしだが、何も恐れず、好奇心のままに突撃する自分も確かにいたんだな。これはまさに、何も持たず生まれたままのまっさらな自分そのものだと思った。

これまでの人生で、嬉しかったこと、苦しかったことがたくさんあって、その中で「自分はこういう人間なんだ」と強く認識せざるを得ない瞬間が山ほどあった。わたしはこういうことが苦手。わたしは執着心が強い。わたしはこういうことが好き。こういう自分への視点があったからこそ、目標ができたり、恐れを知ったりして、これまでのわたしの人生を前に押し進めてくれていたのだと思う。たくさん助けてくれていたのだと実感する。けれど、そこに「本当のありたい自分」はあるのだろうか?執着してしまうのだって、本当は甘えたい自分の裏返しなんだ。「こうあるべき」「こうあらねば」という見えない暗黙のルールや、無意識に自分の中に取り込んだ周囲の人の目で、自分のことを縛りすぎてしまってはいないだろうか。その思いの強さに疲れてしまってはいないだろうか。たくさん戦って、たくさん守ってもらった自分への視点にお礼を言って、これからはもっと肩の力を抜いて生きていけたら。わたしの「変わらなきゃ」の根源は、こういう心の叫びからだった。

このひとり旅で感じたことを両親とたくさん話した。
「自分が生まれ落ちて、自我が芽生えるまでの期間過ごした場所に触れられて、なんか感慨深かったわ。幸せな気持ちにもなった。行ってよかった。」
そう言うと、父は数秒の沈黙の後、気まずそうに、
「生まれたのは大阪の塚本やで。塚本のアパートで数年暮らして、その後明石に行ってん。」

ウソやん?ここにきてまさかの展開やん??大どんでん返しやん???
わたしがあの日、あの時、あの場所で感じたアレやコレはなんやったんや???いろんな思いがひしめき合って、情報やら感情やらが脳内で大運動会を繰り広げています。
けれど、30年近く訪れていなかった小さかった頃の場所を懐かしいと感じられる、こういう経験ってなかなかできるものではない。忘れてしまっていたり、暮らしていた場所が大きく変わってしまっていたならば、出会うことのできなかった感情なのだ。大人になった今だから知ることのできた両親のあたたかさや、今の自分の目線に立ったからこそ見ることのできた風景もあった。いつか両親と一緒に訪れて、当時の色んな話を聞きたい。大阪生まれ大阪育ちのわたしからは以上です。

この前見た夢の話を、また聞いてくれ

「こいつ、もしかしてほんとにうんこ漏らしたんじゃね?」
前の記事を読んでくれている人がいるなら、そんな風に思ってここを覗きに来てくれたのかもしれない。すまんがその好奇心は捨ててくれ。というかそんなことをわざわざ確認しに来るな。賢いわたしは、今日も元気にうんこをしているけれど、それはトイレでしているよ。
今回は、シンプルにわたしが見た夢の話を聞いてほしい。夢って、なんであんなにうまくいかないことばっかなの??

夢の中でのわたしはなぜか大学生で、猛烈に焦っていた。だって、今日試験があったなんて聞いてなかったから。

センター試験か?くらいの人数が大学前に押し寄せ、開門を今か今かと待っているシーンから、その夢は始まった。時刻は朝6時。早さがとち狂っとんのよ。
その日の試験は、センターでも大学受験でもなく、「心理学とマナー」という講義の試験だった。なんだその講義。「どっちも勉強してたって困らないもんね」でとりあえずで開講した授業だろ。分けろ。そんな授業の試験開始を開門前から待つな。
夢の中のわたしに対しても、「焦るな。授業の単位は捨ててしまえ」と思ったが、とにかくまじめなわたしは、試験開始までの限られた時間の中で、必死にノートと教科書にかじりついていた。

「キーンコーンカーンコーン」

予鈴が鳴った。時は無情である。筆記用具以外はすべてカバンの中にしまうように言われた。ぜんぜん関係ないけど、「予鈴」って響き、めっちゃ懐かしいね。脳みそがじわ…ってなっちゃった。
ちなみにわたしが持って来ていたバッグがこれだった。


バッグ


女子大生がイーストボーイのスクールバッグは持っちゃダメだって。
でも夢の中だから、ツッコミ不在でこの状況が進んでいく。現実世界なら絶対にツッコむ。助走つけて全力でツッコむんだから。

いよいよ問題用紙が配られる。裏面から確認するだけでも問題数が膨大で、
「オワタ/(^O^)\」状態になったが、焦ってしまっては何も手につかなくなる。落ち着け自分。心理学の知識はほぼ皆無だが、マナーは何とかなるだろう。

「キーンコーンカーンコーン」

本鈴が鳴った。会場のみんなが一斉に問題用紙と解答用紙をひっくり返し、名前を書く。シャーペンが紙と机に擦れる音だけが響いて、一気に緊張感が高まった。ダメだ。雰囲気に飲まれている場合じゃない。とりあえず今できることをやるしかないんだ。解ける問題を探して、そこからやろう。



Q1.次の言葉を言い換えなさい。

①肉団子 → (         )




何???????????????
どんな問題?????????


わたしは何を問われていますか????
講義名、「心理学とマナー」だったよね?どっち??どっちの何???

けれどもここは夢の中。ここにいる皆が、今自分が持ちうる力を最大限に発揮しようと、全力を尽くしていた。
夢の中のわたしは頭を抱えていたが、それは問題の意図がわからないからではなく、勉強不足で解けないからだった。
解けるだろ。いや、解けなくてもいいんだよ。こんなことに絶望するな。


詳細は忘れてしまったが、他にも違う食べ物を言い換える問題や、ガチの心理学を問う問題がずらっと続いた。試されているのは己のメンタルか?

けっきょく白紙のまま試験終了の時間を迎えた。放心状態のまま、チラッと後ろの席に座っていた友人の解答を盗み見ると、

①肉団子 → ( ミートボール )

と記入していた。

あったまいい~~~~!!!!!


夢の中のわたしは嫉妬した。友人の頭の良さに嫉妬し、今後の人生について思いを馳せた。こういう人が成功するんだ。こういう人が人の役に立つんだ。しかし友人がいさえすれば、この世の中はもう大丈夫だと、同時に誇らしくも思った。今苦しくてどうしようもない人、もう少し待っててください、と―――。

違うよ。お前が考えないといけないのは、この講義を履修したことへの反省だよ。後期はぜったいにとるな。目が覚めたとき、真っ先にそう思った。

寝起きは最悪だった。勉強していないことへの焦り(無意味)、解けないことへの焦り(無意味)、友人への嫉妬(これに関してはまじで何?)の無意味トリプルコンボを達成して、とても疲れていたから。

「もう一回遊べるドン!」
あの太鼓の化身にそう言われても、この授業は履修しない。

確認を怠ることなかりしか

勤務中もずっとそわそわしていた。
これが終わったら、夜行バスに乗って鎌倉に行くんだ。

わたしはその夜、親友とふたりで夜行バスに乗って鎌倉に行く予定をしていた。季節は夏。暑さにはめっぽう弱かったが、めったにもらえない連休。
社会人になると、友人と休日を合わせて旅行に行くというのもなかなか難しかったし、なにより海の近くに旅行に行くことに心を躍らせていた。

夜行バスに乗っている時間はけっこう長いから、すっぴんで行くのはもちろんだが、格好も楽なものが良い。あいにく、夜行バス乗り場まで行けて、なおかつそのままバスに乗り込んでも遜色のない服を持ち合わせていなかったので、仕事が終わったらチャリを10分くらいかっ飛ばしたところにある、GUに行こうと決めていた。GUはいい。マジでなんでもある。それも、ええ感じに仕上げてくれるアイテムが低価格でなんぼでもそろっている。好きです。

仕事が終わってチャリに飛び乗り、坂道をほぼノーブレーキで下る。夜行バス乗り場のある主要駅で親友と待ち合わせていたが、それまでそんなに時間に余裕があるわけではなかった。
購入する商品は、マキシ丈のワンピースがいい。頭の中で、なんとなくそう決まっていた。楽だし涼しいし、それ1枚でぜんぜんいける。夏っぽくもあるし、合わせ方次第でオシャレっぽくもなるから。

GUに到着する。商品量が半端ないので、探し出すのに少し苦労したが、いい感じの長さの黒のワンピースを見つけた。ちなみにわたしはめちゃくちゃ背が低い。お祭りの屋台に並んでいるときは、遠くから見ると空間だと思われて前後を通り道にされる。わたしの乳がひもじいのは、人に前を通られすぎたからだと思っている。お前たちのせいだぞ、どうしてくれる。
人と待ち合わせするときは背が低すぎてかえって目立つのでそれはいいとしても、出会い頭に「そんなに小さかったっけ?」と問いただされることが幾千もあった。知らん。お前の記憶の中でわたしがどのくらいの身長で生きていたのかは知らん。大方の予想をつけてから待ち合わせ場所に来い。

そういうわけで、とにかくワンピースを購入するときは、まず何よりも着丈。ここが最重要ポイントだった。大体のワンピースは引きずるか、「おやおや、ワンピースが歩いているのですか?」(CV滝口順平)状態になるので、いつも買うまでに時間をかけて試着をしていた。ただ、今日はあまり時間がない。

残念なことに、いいなと思ったワンピースはSサイズが売り切れてしまっていて、わたしが着れそうなのはMサイズだけだった。しかし意外や意外。鏡の前で恐る恐る当ててみると、丈感は問題なさそうだった。値段も790円。どうせ夜行バスに乗るまでの服だし、着てみて微妙でもパジャマにすればいいかと思って、高速でレジまで持っていった。

商品を受け取り、爆速でチャリを漕いで家に帰り、荷造りの最終チェックを行う。家を出る時間が迫ってきたので、服を脱いで、さっき買ったワンピースを袋から出して袖を通した。「丈感、ぜんぜん問題ないやん!」と思ったのも束の間。なんかおかしい。めっちゃ涼しい。ものすごくスースーする。
嫌な予感を確かめるように、そのスース―の場所を見ると、服でまとわれているはずの太ももが完全にあらわになっていた。
わたしが買ったワンピースは、両サイドにめちゃくちゃスリットの入ったワンピースだったのだ。

スリットマキシワンピ2


気づかんか?お前、鏡の前で一生懸命サイズ確認しとったんと違うんか?

本来こうやって着て、はじめて成立する服なんだし、なんならMサイズをXSサイズのわたしが着ているのだから、スリットがさらに上にくるので、出てちゃいけないところぜーんぶ出てる。どうにかならんもんかと全身鏡の前でポージングを決めてみたが、そこには完成された痴女が笑ってこちらを見ているだけだった。あかん。「着てみて微妙ならパジャマにすればいっか♡」どころの話じゃない。これを着て家を出られるか出られないかの話だし、これは誰が見てもわかる、出たらあかん。「どうせ夜行バスに乗るまでの服だし♡」じゃない。きっと社会のルールに阻まれて、目的地までたどり着けない。周りに見つからぬようにすればよいのではと、部屋の中を素早く走って移動してみたが、足の前後運動により裾が余計にめくれて「動ける痴女」が生まれただけだった。

思わぬ誤算だ。丈にばかり気を取られるあまり、こんなことになってしまった。縦じゃなくて横から攻めてくるなんて思ってもみなかった。デニムを合わせていこうかとも考えたが、それでは快適な夜行バスライフが送れる気がしない。バスの中でデニムを脱ぐか…?とも思ったが、暗いからってなんでも許されるわけはないと思いとどまった。賢いぞ、自分。

とにかく時間がなかったので、パジャマの入った引き出しから、高校生のときに買ったサーモンピンク色のショートパンツを引っ張り出し、家を出た。鏡は怖いので見ないことにした。このままじゃ、ずっと家から出られない。時には思い切りも大事だよって、誰かが言ってたから。

「サーモンピンク色のショートパンツってなんだ。なんでそんなの買ったんだ。」とも思ったけど、これがないとわたしはいま、夜行バス乗り場にたどり着けていないかもしれないし、快適な夜を過ごせていないかもしれない。

結局ショートパンツは楽チンすぎて夜行バスで爆睡できたし、旅行中の部屋着としても大活躍した。なんならいまでも夏定番の部屋着となっている。GUで買った790円のスリットマキシワンピース、通称痴女ワンピも、スーパーに行くときなどに愛用している。もちろん、デニムなどを合わせて。

確認も大事だし、思い切りも大事。結果的にどっちも正解になって万々歳のできごとだった。
ただあのとき、「ワンピースだけ着て目的地に向かう」という思い切りのよさを発揮しなくてよかったなとは思う。

わたしが大砲台になった話

皆さんは、生まれてはじめてデートした日のことを覚えているだろうか?
わたしは覚えている。甘酸っぱかったからではない、とてつもなく苦い思い出だからだ。
今日はわたしの、嬉し恥ずかし初デイトの話を皆さんに聞いてほしい。


わたしがはじめてデートをしたのは、大学1年生の初夏だった。
それまで、勉強と部活と学級委員長しかしてきていない学生人生だった。この言葉を使うことは少し憚られるが、わたしは俗にいう陰キャ寄りの人間だった。
比較的に明るく、笑いは取りに行くタイプではあったが、対異性となるとてんでダメだった。話しかけることなんてまずできなかったし、話しかけられた日には赤面し、相手の顔も見ず、「あっ…ぉうん、今日提出らしいでっ、そのプリント、ぐぅwww」などと言って、教卓を指さすしかできなかった。ほとばしる非モテ感。そういうことなので、わたしの走馬灯には、ゲーセンでの制服デートも、彼氏と2ケツで夕暮れの中を下校する姿も映し出されることはない。死ぬのが怖い。
同級生たちがマクドに行ってポテトをあーんしている間、わたしは体操服の上をパンティラインぎりぎりのハイウエストにしたズボンにインし、陽気に校庭を走り回っていたのだから仕方がない。
よく授業中に友人の携帯の留守電に大喜利のお題と解答を吹き込んで遊んだな。笑いをこらえる友人の肩の上下運動を後ろの席から眺めた日々が懐かしい。小滝先生、あのときはほんとすみませんでした。

さて、前置きが長くなったがそんなわけで、わたしが異性とはじめてきちんとふれあい、デートにこぎつけたのは大学生になってからだった。

その彼はソフトテニスサークルの1つ上の先輩だった。わたしが使っていたラケットが古くてダメになってしまったので、たくさん持っていた彼が1本使っていいよと言ってくれたのがきっかけだった。
確かそのお礼も兼ねて出かけることになったのが、正真正銘、わたしがしたはじめてのデートだった。

迎えた当日。
授業なんてほとんど耳に入ってこなかった。全身脈か?くらいに心音が全身どこをとっても聞こえてきたし、なんならバクバクしすぎて本当にちょっと体が揺れてたかもしれない。EDM?
授業が終わって、待ち合わせた大学の裏門に遠くの彼を見たとき、「あっ、死ぬ」と思った。彼がかっこいいからとかそういうことではない。ついにこの瞬間を迎えてしまったという絶望に近い感情からだった。大袈裟でもなんでもなく、心臓が2回半ほど口から出そうだったので、必死に嚥下した。

「よろしくお願いしまーーーっす!!!」
審判くらいの声量であいさつをし、何度も頭を下げた。

そこからバスで移動し、商業施設が並ぶ街並みをブラブラしたが、正直緊張しすぎて、何を話したのかまっっったく覚えていない。

小腹がすいたのでお茶をすることにしたわたしたちは、近くにあったミスドに入った。ミスタードーナツ。とてもいい響きだ。チェーン店の安心感はすごい。どんなメニューがあるかおおよその検討がつくし、好きなものも決まっている。
わたしは確か、ゴールデンチョコレートポンデリングを注文したと思う。

ドーナツを食べ進めながら、共通の話題であるサークルの人のことを中心にいろんな話をしていたが、ここであることに気が付いた。「食べる」と「話す」と「頷く」が同時にできないのだ。
何を言っているのか、さっぱりわからない人もいると思います。
少し思い出してほしい。わたしは、出てきてしまった心臓を何度か飲みこむ作業が必要なほどに緊張していたことを。「話を続ける」というミッションだけでもういっぱいいっぱいだった。さっきまで「歩く」「聞く」「話す」だけだったのに、そこに「咀嚼」と「嚥下」が追加されたら、それはもうほとんど大道芸といっしょなのである。バランスボールの上に立って、お手玉を回し、あごに長い棒乗せる。できるわけないだろ。初デートの挑み方を義務教育で教えておいてほしかった。『初デートは大道芸だ!』そんなテキストがあったなら、わたしは穴が空くまで読み、使い込んだに違いない。


大道芸をしながらチラリと前のお皿を見ると、彼のドーナツはもうほとんど残っていなかった。まずい。バランスボールに気を取られすぎていた。お手玉を回さなきゃ。そう思って急いでポンデリングを食べ進めたとき、ふと、彼のした何かの話題がツボに入った。


ポンッ!

その瞬間、口の中にあったはずのポンデリングが、きれいな弧を描いて空を舞い、彼の足元にバウンドした。
わたしは笑った拍子にポンデリングキャノン砲を放ってしまったのだ。時が止まって見えた。うそだ、こんなのあんまりじゃないか。いっしょうけんめい受験勉強をして、頑張って入った大学での人生初デート。こんな切ないことがあってたまるか。
しかし同時にドーナツの中でも、いや、食べ物の中でも最もキャノンしやすいであろうポンデリングを、初デートに選んでしまったことを猛烈に悔いた。


ポンデリングをwwポンてwwwしてもたwwwwwwwwwww」
今ならこんな風に茶化すこともできたかもしれない。
けれど当時は歩行と会話でいっぱいいっぱいのウブな女子大生である。
床に転がるポンデ・キャノンを忍びのごとく回収し、伝言ゲームの声量で「すみません…」と陳謝するしかできなかった。

「ポンデ・キャノン」
次にサークルに行ったとき、陰でこう呼ばれていたらどうしよう。
ドキドキしながらサークルに行ったが、いつものようなゆるくて楽しい時間が流れていて安心した。
けっきょくその彼とは短い期間ではあったがお付き合いすることになった。
恋に恋していたのだと思う。ふと、この人のどこが好きなのかまったくわからなくなってしまい、すぐに別れてしまった。反省はしています。

大学の小さなサークルなだけあって、別れたことがすぐに部員たちに広まってしまった。最悪なことに、その彼が、わたしのあることないことを吹聴し、最低学年だったわたしは、なんとなくサークルにいづらくなってしまった。

当時、日本全土の学生がやっていたSNSmixi(ミクシィ)。そのつぶやきに、「あ~~結構つらいわ」「学校行くしんどい」などという彼の書き込みが更新されまくっているのを見て気が滅入っていたが、「今日も寝れんかった」のつぶやきに「そら昼間あんなに寝てたら夜寝られへんやろ」とサークルの先輩から辛辣且つ的確なコメントが書き込まれているのを見て吹っ切れ、また楽しい仲間たちとサークルに行くようになった。



みなさんの人生初デートは、どんなものだったんだろう。ずっとかわいく、ずっとかっこよく振舞うことができたんだろうか。それが着飾らない自分らしさだったなら、とても素敵なことだけど、緊張したり、少しでもかわいいと思ってほしくて頑張ったお化粧や服装、振る舞いもまた、悪くないなと思った。ひと癖ある走馬灯が少し楽しみになった。

この前見た、夢の話を聞いてくれ

人は毎晩、夢を見ていると言われている。
目を覚ますと忘れてしまうことも多いが、わたしは比較的覚えている方だ。

「人の夢の話ほど、どうでもいいと感じるものはない」
わかる。そう言いたい気持ちもわかる。これまで、友人たちのそういった何のとりとめもない話に、どう反応すればよいのかわからず枕を濡らした夜もあったと思う。でも、どうしても話をさせてほしい。読んでくれている皆さんの枕は、濡らさせやしないから。きっと。


そのおっさんは上下毛玉だらけのグレーのスウェットに、茶色の便所サンダル、くったくたのグリーンのモッズコートを着て軒先に現れた。頭髪はほぼない。そんなの当たり前だろう、くらいに生えてない。

わたしは、そのおっさんとなぜか大声で罵り合っていた。


「俺の言うことのどこが間違っとんじゃあ!ボケェェェ!!!」

「何もかもすべておかしいやろ!脳みそ腐っとんちゃうか???!」

「何やともっぺん言ってみぃ!!お前がさっき言うたアレとコレについてはどやねん??!矛盾してるんと違うんか言い返してみぃ!!!」

「…そ、それはもともとお前が発端でわたしが仕方なく訂正したったんやろがい!!!」

「お前、さっきと言うとること違うな、どないなってんねん???!」

これを軒先で大人ふたりが大声でやっていることにも引いてしまうが、それよりも、こちらが完全に劣勢なことに気がついてほしい。あんな風貌なのにも関わらず、そいつは本当に口が立った。これまでの会話に出てきた情報を、ありとあらゆる場面で駆使し、痛いところをめちゃめちゃに突いてくるのだ。あんな風貌なのに。
それにひたすら暴言のみで応戦するわたしは、目に見えて完敗だった。

小学生のときから、口喧嘩で負けた記憶がほとんどなかった。クラスの発表会で披露するモーニング娘。の歌のパート割りにグループ内で不満が出たときだって、わたしが中心となって、リーダーのみのりに意見したのだ。そういえば一番不満そうにしていたなっちゃんは「そーや、そーや!」しか言ってなかったな。なっちゃん、元気にしてるかな。
社会人になってからだってそうだ。独自ルールで希望を出してシフトを組み、土日と祝日ばかり元気に休みまくる女に、「あの、そもそもの話なんですけど」と冷静に切り出し、平等性を説いたのもわたしだ。次の月からは、勤務歴など関係なく、一人ひとり順番にシフトを組むルールに変更になった。
口喧嘩とは違うが、とにかくわたしも、「口が立つこと」で得をしてきた人間なのだ。こんなわけのわからんおっさんに論破されるなんてあってたまるか。


モヤモヤとイライラが頂点に達した瞬間、わたしはそいつに殴りかかった。グーで。

突然の展開に驚いていることと思います。口が立つことについて、これだけの尺を使って書いてきたのに、ここにきて暴力ですもんね。自分が一番驚いています。これ夢の話だからね?普段はこんなことなんてぜったいにしないからね?とても温厚なメスゴリラなので安心してください。それでは続きをどうぞ。

バキィッッッ!!!!!

とにかくイライラしてどうしようもなかったわたしは、硬くこぶしを握り、助走をつけて力いっぱいそいつに殴りかかった。

痛っっ!!えっ!痛???????

突然大きな音がして目が覚めたのだが、同時にある違和感を覚えていた。
右のこぶしが、めちゃくちゃ痛いのである。
電気をつけて確認すると、手の甲の中指付近から出血していた。

そう。わたしは夢と連動して、思い切り壁を殴っていたのである。
不運なことに、そのとき、左肩を下にして横向きの体勢で寝ており、さらに最悪なことに、すぐ目の前には壁があった。
ケガするすべての要素がこんな形で整うことある?何かのお膳立て??何の???
右腕がフリーなもんだから、めっちゃ動かしやすくて全力で振りかぶって殴りかかっちゃった。壁に。
「反抗期以外で壁殴ることあるんや」とか考えてたら中指がジンジンして熱くなってきたので、すぐに冷やしてシップを貼って対処した。
時計を見たら、朝の4時過ぎだった。アカン、もう寝れん。

それから数日後。わたしはまた夢を見た。
風邪を引いている夢だったのだが、とてもひどい鼻風邪で、息苦しくてどうしようもなかった。
「鼻をかもう…」
ティッシュに手を伸ばし、ちょうど鼻をかんだところで目が覚めた。布団で鼻をかんでいた。きれいに、右の角を使って。

夢ならばどれほどよかったでしょう。
この歌詞の本質を捉えた気がした。

次はうんこを漏らした夢を見たときにでも、またここで報告しようと思う。

サギと、角中と、それからわたし

「サギのモノマネとか、そういうのしたくない」
皆さんは、別れ話のときにこんな言葉を言われたことはあるだろうか。わたしはある。

4年くらい前。わたしは5つ下の男性と交際していた。当時彼は21歳。「男性」という表現をするのが憚られるくらい若かった。

彼とは婚活パーティーで知り合った。婚活パーティーに行ったことのない人もいるだろうから説明すると、仕切りのある机に1人ずつ座って開始時間までにプロフィールカードを記入し、男性が回転寿司のごとく女性のテーブルに回って来て3分くらい話をするあのやつだ。そして次の相手が来るまでの間にさっき話した男性の印象に残ったことをカードにメモをするという流れで行われる。気になった人へのアピールタイムなども経て、最後のマッチングタイムで、相思相愛ならば連絡先を交換し、後日デートにこぎつけられるというシステムだ。マッチング時は最初に振り分けられた番号で呼ばれるので、「番号で呼ばれてみたいけど、刑務所には入りたくない」という人は、ぜひ参加してみるといい。

この婚活パーティー、とにかくせわしない。会話が終わった途端、次の男性が移動して来るのだが、なにせテーブルが隣なもんで秒で来る。回転寿司①から回転寿司②へのバトンタッチが早すぎる。まだ①を咀嚼してんのよ、飲み込めてないのよ。
こんな流れがマッチングタイムまでほぼノンストップで行われるもんだから、頼みの綱は手元のカードに書いたメモしかないのに、「白スキニー」「猫狂い」「餃子」とかしか書いてない。過去の自分をぶん殴ってやりたい。

前置きが長くなったが、5歳年下の彼とは先述通り婚活パーティーで知り合った。そのとき参加した婚活パーティーは、大まかな流れは一緒なものの、パイプ椅子だけが並んだ暗い地下室に、申し訳程度の電飾が壁面に雑に張り巡らされているような会場だった。そこに主催企業のPR音源が爆音&エンドレスで流されていたので、まじで何かの契約でもさせられるんじゃないかと思って震えていた。

ただ、パーティーが始まってみると今まで参加したものと特に変わりなかったので安心した。その中で話をして後に付き合うことになったのが、この5つ下の男性だった。仮にTとしよう。正直、印象に残っていたかと聞かれるとそんなこともなかった。ただ、Tとわたしは応援するプロ野球の球団が同じで、その話で盛り上がったことだけは覚えていた。
彼は少し離れた場所に住んでいたため、1回目のデートで京セラドームに足を運んで野球観戦をした後、告白を受ける形で付き合った。
正直、Tのことはあまり知らなかった。やりとりするラインも、ほとんど野球の話ばかりだったから。ただ、わたしはこの頃、前の恋人と別れて2年以上が経っていた。前の恋人は、最終的には共依存、それこそズブズブと底なし沼にはまっていくような関係になって別れた。好きでも幸せになれるとは限らないということを痛烈に経験したわたしは、まったく真逆な印象を持ったTと付き合ってみようと思ったのだった。何より、「今日阪神が勝ったら、告白しようって決めてたんです。」なんて素直に言ってくれたことも嬉しかったから。


さて、そんなこんなで交際がスタートしたが、ほぼ毎日電話を掛けてくれた。まっすぐで裏表のない人なのだなと感じた。

付き合うと野球の話以外もたくさんしたが、好きなテレビ番組の話になったとき、「俺、あれが好き。朝まではしご酒(シュ)!」と言った。
・・・はしご酒(ザケ)では?????
付き合ってからいっしょに過ごす時間が多くなり、薄々勘づいていたのだが、Tは漢字が本当に読めなかった。はしご酒を音読みする人に、わたしは初めて出会った。
デートを重ねる度に、電話をする度に、わたしは少しずつ違和感を覚えるようになっていた。とにかく会話が続かないのだ。野球がない日は特にそれが顕著で、彼と話をしたいと思えなくなっていた。
思えば違うことだらけなふたりだったのだ。年齢も、食の好みも、笑いのツボも好きな音楽も。でもだからこそ話せることはたくさんあるはずなのに。

話があまりにも続かないので、楽しい話題や共通の話題は全力で盛り上げ、デート中に起こった面白いことには総ツッコミを入れるという会話スタイルへと変わっていった。
ドライブ中、Tが歌ったロッテ角中の応援歌の「ララララ角中、ララララ角中」という部分がなぜかツボに入り、何回も歌ってもらったり、訪れた神社で引いたおみくじをむちゃくちゃな読みで音読みする彼に振りかぶってツッコミを入れたり。
しかし、これがマズかった。あんなにマメだった連絡が、糸を切ったようにプツンと途切れてしまったのだ。


「俺といっしょにおって楽しい?俺はサギのモノマネとか、そういうのしたくない」
電話口でそう言われたとき、まず耳を疑ったが、同時にやってしまったと思った。5つ年上の女にこうもいろいろツッコまれるのは、バカにされたような気がしてならなかったのだろう。ちなみにサギとは、繁殖期にバカでかい声で昼夜問わず「ア”ァ!!!」と鳴く水田によく見られる鳥である。飛ぶときは、両足を地面とまっすぐ平行にして飛び、歩くときは泥棒のように抜き足差し足で歩く、あの鳥である。Tはそのモノマネがうまかったので、何回もやってもらった。それはもう、こすりにこすってやってもらった。
わたしとしては、ただただ、その場が楽しくなればいいなと思ってやったことだった。だけど思えば、デートの後はいつも少し疲れていた。声を張り上げて全身でツッコミ、ちょっとおもしろいことがあったら大げさに笑う。そりゃそうか。どっちも悪くないよな。

言いたいことはいくつかあったけど、「ごめん。話してくれてありがとう。今までありがとうね。」と彼に伝えた。
それでもなお、「角中とかも、嫌やった」と言われたときは、頼む、もうやめてくれと思った。川で溺れかけて満身創痍で陸に上がろうとしている人を脚で蹴るな。


恋人が長くいないことを不安に思わなくてもいいし、無理に相手や自分に当て嵌めようとしなくていい。相手の知らないところはたくさん聞けばいいし、自分のことも自分の言葉で伝えればいい。
自分が好きな自分ってどんな自分だろう。楽な自分ってどんな自分だろう。そういうことを考えられていなかった。誰かと付き合うことは、自分と向き合うことだ。


ちなみに角中の応援歌は、今でも声を出して笑う。

知って認めて、またはじめる。HSPの自分のこと。-2021.5-

「 優しすぎる  病気 」

たしか最初は、こんな検索ワードで調べたと思う。

退職直前、とても疲れていたのだけど、この疲れの原因が、ただ忙しすぎることだけではないように思えた。向いている、向いていないとかそんなわかりやすいもので、分けられる気もしなかった。

このころ、たしか1月後半か2月ごろ、わたしは、人と関わりあうことがもしかしたらそんなに好きじゃないのかもしれないと思うようになっていた。

どこでだれと会っても、「親しみやすい」「安心感がある」などと言ってもらえることが多かったし、はじめて会う人とも、どちらかといえば早く仲良くなれるほうだと思う。仕事も、意図せず広報的な役回りが多かった。
わたし自身、こんなふうに人と会うことでリフレッシュできていることもまた、自覚していたのだけど。

職場で起こる様々なこと、それこそ業務に関することだけではなくて、例えばだれかの愚痴を耳にすること、だれかの機嫌の悪さに触れること、そんなことは別に、自分のこととは切り離して、日常の1シーンとしてとらえていると思っていた。いたのに。

わたしは昨年の2021年9月頃から心身の不調が出ていた。

そのひとつとして喉の詰まりがあった。鎖骨のくぼみの少し上のあたりを、ずっと指で押されているような圧迫感。これが寝ているとき以外、四六時中続く。けっこうやっかいだ。

この喉の詰まりが、わたしが日常の1シーンだととらえていた、要はプラスにもマイナスにもとらえていないと思っていた、だれかの愚痴を聞くことや機嫌の悪さに触れること、なんなら、デスクが隣の人となにげなく会話を楽しむときでさえ、強く体に出るようになった。おかしい。

普段、自分が行っている当たり前みたいなものを疑いはじめたのは、このころくらいからだったと思う。

わたしが普段なにげなくしていたことは、もしかしたら得意なだけで、したいわけじゃないのかもしれない。

そう思うと、今まで自分の人生の中で積み上げてきたものは、いったい何だったのだろうと、少し途方に暮れた。自分のこと、もしかしたら何もわかっていなかったかのかもしれないな……

hiiro-kwk92.hatenablog.com

この記事でも書いたのだけど、学生時代、人とどう話せばよいかわからなくなったわたしが、もがいてもがいて手にした、人と積極的に関わる力。それを武器に、たくさんの人と深く関係を築くことができるようになったし、仕事にも大いに活きた。

いろんなこと、克服したって思ってたんだけどな。うまくできるようになっただけだった。心と体がこんなにも疲れてしまっていて悲しかった。とても。
トンカントンカン、一生懸命建てて形になってきた家が、急に更地になったような、そんな気持ちだった。

なんでこんなにも疲れるのだろう。

心が望んでいないことを、無自覚で続けてきてしまったから?

だけど、わたしはやっぱり人と話すことは好きなんだよな。
いくつも矛盾を抱えながら、ひとつのぼんやりとした答えにたどり着いた。

 

「優しすぎるのかもしれない」

 

そう思ったとき、ほんとうにそのまま、
「 優しすぎる  病気 」を検索ワードに入れて調べてみた。

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)

高度な感受性を持ち、人の気持ちが「わかりすぎてつらい人」のこと。
・繊細で傷つきやすい
・感受性が高い
・直観力に優れている
・人に意識を向けすぎる
・五感が鋭すぎる
・共感力が高い
・小さな変化を見逃さない

はじめて目にする言葉だった。こんな特性を持って生まれてくる人がいるらしい。

こういうものは、いままでの人生経験の中で培われるものだと思っていた。
それこそ、なにか強いストレスにさらされてとか、トラウマがあってとか、そういった周りに敏感に目を向けないと生きていけない環境下で、自分を守るために、状況を良くするために身につけていく能力だとばかり思っていたから。

こんな特性が存在すること自体、わたしには思いもよらないことだった。
そうか。わたし、人と話をしているとき、あらゆるコミュニティーの中にいるとき、知らないうちに共感してたんだ。いろんな感情をもらってたんだな。わたしは自分のこういうところを、どちらかといえばマイナスに、少ししんどく感じる瞬間が多かった。

仕事をしているとき、友人と話をしているとき、ひとりで買い物をしているときも、いろんなことをもっと大胆に、思い切ってやれればいいのにと、様々なパターンを頭で反芻したりして。

自信満々で、堂々と振る舞えるようになりたくて、たくさんの自己啓発本や、世の中にあふれる様々な成功者たちのノウハウに触れて実践したけれど、営業や広報的な仕事は、どうしても心から楽しむことができなかった。
ぜんぜん、自分の中に落ちないのだ。もやっとする。不安になる。

それでもそういった役回りの仕事で立ち回ることが多かったり、はじめましての人と比較的うまく話ができたのは、わたしが”社交的で人好きなタイプのHSP”、つまりHSE(ハイリー・センシティブ・エクストロバージョン)の気質が強かったから、という見方もできるみたいだ。え?なにこれ必殺技??

HSE自体、まだまだ文献が少なく、わからないことも多いそうだが、調べていくとどうやらHSPにも社交的なタイプや、刺激を求めるタイプと様々あるそうで、ひとくくりにはできないそう。そりゃそうか、にんげんだもの

「こんなの、当てはめたもん勝ちやん」
「なんでもかんでも特性のせいにするな」
「大体の人は、多かれ少なかれ当てはまるやろ」

こういう意見が挙がるのもわかる。
実際、該当したわたしでさえ、まだまだそんなふうに考えているから。
そして、これにすべてを当てはめて生きていこうと思っているわけでもない。

ただ、この特性を知って、わたしはとても救われた。
自分を好きになる努力はたくさんしてきたつもりだけれど、自分が好きだと、はっきり言えない。
もうね、30年間で凝り固まった考えをガランと変えるなんてことの方が、めちゃくちゃ難しいんじゃないか。そう思えてしかたがないのだ。

また、過去の恋愛で、どうしても「最初のころのような敬意が払われないこと」がたくさんあった。
恋愛指南書などで、「相手に尽くしすぎるとナメられる」的なことがよく書いてあって、わたしはそれに該当するのかな?とも思っていたのだけど、ずっとなんとなく違う感じがしていて。でも、HSPのことを知って合致がいった。
相手の居心地の良い空間をなんとなく察知し、知らないあいだに提供してしまってたのかもしれない。
それは、うまく言えないけれど、「尽くしすぎる」とは違う気がする。そう思いたいだけかもしれないし、けっきょく「本命コミュ障」なのかもしれないけれど。

でも、もしそうなら。
恋愛に限ったことではないから、無意識に相手を優先させてしまうこと、ちょっと怖いなと思うし、そりゃ疲れるか、とも思う。
ただ一方で、これってだれにでもできることじゃない。

だったら、今ないものに目を向けて頑張るより、こういう自分なんだからしかたがないねと、まるっと受け入れられたら、もっと楽に生きられるんじゃないか?

少なからずそのきっかけになった。
自分を認めて受け入れるということを、ちゃんと理解することができた気がする。
この特性を知って、自分自身と人生をともに歩いていくスタートラインに、やっと立てた気がしたのだ。

知って悲観するのではなくて、知ったから、この自分でどう生きるか。開きなおって、持ち前の直観力の向く方へ進む。進んでくたびれたら、「また張り切りすぎちゃったな」って気がついて認めてあげる。


きっと、いろんな意見があると思う。
けれど、自分の当たり前を疑って、はじめて知ることができたわたしのことだから。
ひとまず自分に、「頑張ってきてくれてありがとう。お疲れさま。今までごめんね。」って声をかけてあげたいと思えた。
これってすごく大きな一歩なんじゃないか。


とてもつらいとき、ついつい幸せになるために生まれてきたことを忘れてしまうけれど、ずっと一緒に生きていく自分のことだけは、だれよりもわかってあげたいと思う。それさえあれば大丈夫だと、心強く思えた。