好奇心が大暴走した話

好奇心は時として、人を窮地に陥れる。
突拍子もない、大胆な行動をさせる力を持っているから。


わたしがまだ兵庫県に住んでいたときだから、3歳くらいの頃の話になる。
両親と兄ひとりと猫1匹。決して広いとは言えないマンションで暮らしていた。たしかその日は父がいたので、日曜日だったと記憶している。

休みの日はたいてい、父がいろんな場所に連れて行ってくれたが、その日は天気があまり良くなく、家で過ごしていた。

父のサービス精神の旺盛さはすさまじく、外に遊びに行くときはもちろん、家にいるときだって、わたしたち子どもを飽きさせることはなかった。とにかく全力で笑いを取りにいくし、やんちゃ盛りの子どもふたりの無理な要求や強めの攻撃にだって、ほとんど笑顔で答えてくれていた。
プールに遊びに行ったときは、よく父をサーフボードの代わりにして遊んだ。50mプールで息が続く限り潜水して平泳ぎをさせ、兄とふたりで父の背中に乗ってサーフィン気分を味わった。子どもなので、もちろんおとなしく背中に乗っているわけがない。あれはほとんど拷問だったので、よく笑って許してくれたと思う。数年経ち、日焼けを重ねてシミだらけになった父の背中を指差し、「汚い」というわたしたち。ひどすぎる。ひどすぎておもろい。

サービス精神旺盛なところは今でも健在で、実家からひとり暮らしの家に帰る際にはほぼ必ずと言っていいほど駅まで送ってくれるし、実家でのひとときを最後まで楽しいものにしてもらおうと、「ひいろちゃん!いってらっしゃい!!!気ぃ付けてな!!!」と駅にいる全員がこちらを一瞥するくらいの大声を車の中から出して見送ってくれる。人前でただ大声を出すというシンプルなボケだが、その思い切りのよさとバカらしさにいつも笑ってしまう。周りにいる人たちにとっては、こんな迷惑な話はないとは思うのだけど。でも、これに関してはマジで恥ずかしいのでやめてほしい。腹から声を出すな。

そんなわけで、子どもの頃はどこかに出掛けても出掛けなくても、いつも全力で笑いを取りにいく父と、いつもニコニコほんわかした母とわたしと兄とで、楽しい毎日を送っていた。あの日もそうなるはずだった。

家で家族と楽しく過ごした夕方に事件は起こる。
ふと、どんぐりが見たいと思った。なんで??おい子どもの俺、なんでや??
子どもの発想や行動には本当にびっくりさせられる。そこには、ルールも法則も固定観念も何もない。「どんぐりが見たい」の直球ど真ん中ストレート。ただそれだけなのだ。

あの日のことを大人になってから父に聞いたが、季節は夏だったらしい。どんぐりは、今まさにどんぐりの実になるために頑張っている最中なので、もちろんあるわけがない。けれど当時のわたしは、なぜかどんぐりがこの家にあることを知っていた。玄関を入って左に曲がった畳のお部屋。そこの衣装タンスの小さな引き出しの中に、ハンカチに包まれるようにしてどんぐりが眠っている。どんぐりへの執着が記憶をここまで明確にさせるのだろうか。どんぐりの何が、当時のわたしをそうさせたのかわからない。しかし行ってみると本当にあったのだ。念願のどんぐり。たまごボーロくらいの小ぶりのどんぐりを親指と人差し指の間に挟んで転がしたとき、なんとも言えない高揚感に包まれた。


「このどんぐりを、鼻の穴に入れたい」。
なんでや、全然わからん。
しかし新たな好奇心と欲求の渦に一気に飲みこまれ、次の瞬間にはどんぐりがもうわたしの左鼻の穴へと吸い込まれていた。
「ヤバいかもしらん」。瞬間、悟った。モニタリングかなんかで、どんぐりを鼻に入れるまでの時間を競っていたとしたら、間違いなく優勝していると思う。鼻に入れる瞬間、「ちょっとヤバいことになるかもしらん」がよぎらないわけではなかったが、そんな陳腐なこの先への不安は、子どもの好奇心を前にすれば太刀打ちできるはずがない。はたから見ていれば、一片の迷いもないスムーズなどんぐり運びだったと思う。
当時のわたしのすごいところは、なにも好奇心だけの話ではない。ファーストアタックの段階ですでにどんぐりを鼻の穴の中腹あたりまで押し進めていた。先のことなんて一切考えない大胆な指使い。思い切りがいいなんてもんじゃない。

まだ3歳にもなっていない当時のわたしは、自分で鼻がかめるかも危ういほど幼かった。空いている右の鼻の穴をふさいで勢いよく「フンッ!」とどんぐりキャノンをするなどという発想すら持てなかった。どんぐりを掻き出そう、掻き出そうと鼻に穴に指を入れれば入れるほど、どんどん吸い込まれていくそれは、恐怖以外のなにものでもなかった。「どんぐりが鼻から取れへん状況」が、小さなわたしを絶望に追い込むことなんて容易いものだ。もう、大丈夫だと激しく思い込む以外、平常心を保つ方法はなかった。
大人でもちょっと焦ると思う。アクセサリーショップに行って指輪を試着して取れなくなったときの、あの焦燥感に少し似ている。しかし、こちとら鼻ぞ?

”鼻は、呼吸をしたりにおいを感じたりするだけではなく、湿度の調節や異物(細菌やほこり)の進入を防ぐなど、人間の健康にとって大切な働きをする場所です。”

 

 

な?

今なら、「どんぐり 鼻に入れた 好奇心の暴走 何科」などと自らググって解決できるだろう。
しかし当時のわたしは、このヤバさをどう対処すればよいかわからなかった。困らせたくなかったからなのか、怒られると思ったからなのか、リビングにいる両親に「ちょっとヤバいことになったかもしらん」とは言い出せなかった。ヤバいことにはなっていないという祈るような思いもあったのかもしれない。

その部屋でどのくらい立ちつくしていたのかわからないのだが、隣の部屋に行ったきり帰ってこない娘に両親が気が付くのも時間の問題で、父が様子を見に来た。雨に打たれた子犬のように不安げな表情を向けるわたしに、「どうしたんや」と声を掛けてくれた父を見て、声を上げて泣いた。「好奇心が暴走して、鼻にどんぐりを入れてしまったが、それが奥に入って取れんのです」が言えんので泣くしかできんのです。
泣いてばかりで埒が明かないので、父はオープンクエスチョンからクローズドクエスチョンに切り替えた。
・鼻を気にして泣く娘
・鼻を触ると痛がる娘
・わずかに膨らむ左鼻
・開いた衣装タンスの引き出し

「鼻痛いんか?」
「うん」
「何か入れたんか?」
「…うん」
「タンスのどんぐり入れたんか?」
「…うんっ」

コナンもびっくりの名推理である。一話でよいので出演させてあげてほしい。

点と点が線になって繋がったのに、こんなに嬉しくない結末ってあるんかと、普段あんなに明るい父が、子どもの目から見ても明らかに焦っていた。同時に、「これはほんまにヤバいことになっとるやんけ」の現実がわたしの胸に突き刺さり、その頃にはもうほとんど咽び泣いていた。
さらに不運なことに、その日は日曜日。どっこの病院も開いていないのである。たしか生まれたときも、日曜日で雷雨だったと聞いている。何かの宿命か。

そのあと父の運転するジムニーに乗せられ、着いたのは、暗くて古い救急病院だった。硬いベッドに乗せられ、仰々しい器具で鼻の奥を照らされる。今なら、「やら、らめ…そんなところまじまじと見ないれっ…」などと同人誌のセリフが脳内再生されるだろうが、そんな知識も余裕もない。怖すぎて逆にもう泣けなかった。先生は手早くホース状になった吸引機を取り出し、わたしの左鼻へと近づけた。

スポ――――ン!

吸引されたどんぐりが、すごい勢いで滑り台をすべるようにホースの中を転がっていった。安堵から号泣するわたしを尻目に、両親も先生も看護師さんも全員爆笑していた。ひどすぎ。患者側と病院側の気持ちの隔たりがこんなに大きいことある?

「いやぁ~よかったですねぇ~~!まさかどんぐりを鼻に入れるとは(笑)」
「ほんま、僕もびっくりしましたよ(笑)」

盛り上がるな。

しかし、この先生のおかげで、どんぐりとの共生が避けられたのも事実だし、この状況はどう考えてもオーディエンスがいちばんおもろいから仕方がないので目をつむることにした。


好奇心は、わたしたちを未知なる領域に連れて行ってくれる素晴らしいものに違いない。好奇心があるから、わたしたちはいろんなことに挑戦し、何にも代えがたい経験に遭遇したりできる。
ただ、どんぐりは鼻に入れたらアカン。どんぐりじゃなくても、鼻に入れていいものなんてほとんどない。好奇心は時としてこんな風に人を窮地に陥れるし、もしかすると人生を壊してしまうことにもなりかねない。
ちなみに、このどんぐりは記念に持って帰ったので、今でも実家のどこかの引き出しの中で眠っている。見つけて手に取ったとき、絶対に鼻に入れない、とは言い切れない。