秋になると思い出す人のこと

ついこの間まで半袖で暑い暑いと言って、日傘も手放せなかったのに、今は当たり前のように長袖に腕を通している。
最近は金木犀の匂いなんかして、気が付けばもう夜だ。

卒業が他の人より半年遅くなった彼は、たしかすこし秋を感じるこれくらいの季節に、この場所を離れていった。
地元で就職することが決まっていたからだ。

こっちで就職をしないと打ち明けられたときのことは、正直まったく覚えていないのだが、それでも思い返すと胸が苦しくなるから不思議だ。

彼とはアルバイト先で知り合った。
わたしはスポーツジムのフロントスタッフ。
彼はジムスタッフだった。

こいつ、めちゃくちゃ感じ悪いな。
初めて彼を見たとき、そう思った。

身長がデカくて歩き方も態度もデカい。
偉そうなラピュタ巨神兵を想像してくれたらちょうどいい。


わたしには当時、1つ年下の恋人がいた。
10割話したうちの2割くらいしか話が通じない人だったけれど、裏表がなくまっすぐなところに惹かれた。

アルバイト先の屋上で、ささやかな花火大会が開催されたことが、巨神兵との急接近のきっかけだった。

巨神兵はぜんぜん花火をしなかった。
風の強い日だったから、着火するためのロウソクの火が何度も消えて、その度に自分のライターで火をつけては、少し離れた場所でぼーっと眺めているような人だった。

格好をつけていたんだと思う。
けれど、場や人の変化に敏感で、必要な誰かのために動ける人なんだと、そう感じた。


彼は一人暮らし、わたしは実家暮らしだったが、偶然、帰る方向が一緒だった。
花火の匂いを纏いながらバスに乗り込み、横並びの席に座った。

巨神兵と小人。
彼は180cm以上、わたしは150cm以下だから、本当にそんな感じだった。


彼はわたしより1つ年上だったが、わたしの方がアルバイト歴が長かったことと、彼の几帳面な性格が相まって、わたしにずっと敬語だった。呼び方も、苗字にさん付け。

バスは終電間際だったから、よく混んでいて、仕事終わりで疲れ切ったサラリーマンの表情にさらに影を落として見えた。

車内は人を縫うようにしないと降りられないくらいにぎゅうぎゅうで、その度に背の低いわたしはいつも参っていた。


「俺がブルドーザーになりますよ」
察しが良く、気の利く彼は、耳触りの良い落ち着いた声でそう言って、わたしの前をぐんぐん突き進んでいき、道を作って一緒に降りてくれた。

彼の最寄りのバス停ではないのに。

高揚した。すごく嬉しかった。
バス停の傍の公園を突っ切って自宅に帰る最中、静かに、そして深く湧き上がる気持ちに、ゆっくりと息を吐いた。

そのときにはきっと、もう恋だった。


彼とはそれから、勤務時間がかぶることが増えていった。
たまに、わたしの家の近くのバス停で一緒に下りては、公園のブランコに揺られながら、自動販売機で買った缶ジュースがぬるくなるまで話をした。

ジュースを買うとき、「つめた〜い」の表記を声に出してボタンを押すことが決まりになっていた。

彼とすれ違うとき、フロントからジムに内線を掛けるとき、緊張しながら閉館の館内アナウンスをするとき、いつもどこかで彼が頭に浮かんでは、必死に搔き消そうとした。

誤魔化そうとしていることがもう、なによりの証拠だった。

わたしは当時の恋人に別れを告げる決心をした。
その場に立ったときの震える心と体で、この人にちゃんと恋をしていたことをはっきりと自覚した。
許してほしいという気持ちも、どこかにあったのかもしれない。
何度も何度もシミュレーションをしたのに何も上手く言えなかった。

1年と半年足らず。
わたしが付き合ったと言える、初めての人だった。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も何もかも違う気がしたけれど、何もわからないまま思いを伝えた。

もっと、スッキリすると思っていた。
好きな人ができてしまったけれど、好きな人ができたことを、どこかで嬉しく感じていたから。

たしかその夜は眠れなかったと思う。
何故かは考えたくなかった。



「花火しません?」
数日後、巨神兵が花火に誘ってくれた。
二つ返事で承諾し、いつもの公園から少し離れた大きな広場で花火をした。

住宅街の近くの広場だったから、どんなに楽しくても声を殺して笑わなければならず、それがかえっておかしくて結局2人でゲラゲラ笑った。女の切り替えの早さというのは、本当にすごい。

2人用にしては少し多かった花火が、あっという間になくなり、
もう、一緒にいる理由がなくなってしまったな。そう感じていると、


「これ」
彼が、隠していた花束を差し出すように、花火をわたしの手に持たせてくれた。

「この花火、好きって言ってましたよね?」

確かに、わたしはあの屋上での花火大会の日、彼に言ったのだ。
「この花火、ずっと元気な線香花火みたいで、なんか好きなんです」って。


めちゃくちゃキザだなと思った。
けれど、それ以上に彼の気持ちが嬉しかった。

好きだなぁ。
もうほとんどの灯りが消えた住宅街で、ぽつりと、彼に抱いた想いが湧き上がった。

アルバイトの休みがかぶった日にはレンタカーを借りて出掛けたりもした。
思えば、父親以外の男の人の車に乗ったのは、この人が初めてだったかもしれない。

偶然、電車の中吊り広告か何かで見かけて以来、ずっと行ってみたかった神社だった。わたしから声をかけた。

車内で何を話したかまったく覚えていないのだが、笑い過ぎてお腹がよじれ、呼吸困難になったことだけは覚えている。

わたしたちだけの空間が、わたしたちの行きたい場所へと進んでいく。

変わっていく街並み。

とてつもなく贅沢で、愛おしい時間だった。
わたしがドライブを好きな理由は、ここから始まったような気がする。

念願の場所は、息を飲むほど美しかった。
人もいて、滝だって流れているのに静かで、なんだか不思議な空気だった。
山独特の冷たい空気が両腕を大きく開いて、包み込んでくれているような感覚だった。
ずっと見たかった石段と春日灯篭。
目を奪われてその場から動けず、しばらく眺めていると、

「写真、撮ってくれませんか?」
60代くらいのご夫婦に声を掛けられた。

彼はとても嬉しそうにカメラを受け取った。

「撮ります!はい、チーズ!もう1枚。はい、チーズ!!最高っす!」

カメラが趣味だった彼は何でも撮ったが、人を撮るのが1番好きなんだと、前に教えてくれた。

「撮りましょうか?」
気を利かせて、奥さまが声を掛けてくれた。

「えっ…」
照れ臭さから、明らかに動揺するわたし。

「すいません、お願いします!」
そう言うと、一瞬わたしに笑い掛け、一眼レフを奥さまに差し出した。

少し距離をとり、ぎこちなく肩を並べてピースをして撮ったその写真。
次の年には、また同じ格好をして、このときよりぐっと近づいて写真を撮ったけれど、このときの写真が、彼と過ごして撮った中でいちばん好きで、いちばん特別なものになった。



大好きだった。
一生分の恋を、彼にしたんじゃないかと思う。

どこに行くにも、公園の傍のバス停で待ち合わせをしたし、どこにも行かなくても、わたしたちには公園のブランコがあった。
彼の恋人になった瞬間も、わたしはこのブランコに揺られていたのだ。

決していい思い出ばかりではない。それでも、これほど胸がいっぱいになるのだから、仕方のないくらいの大きな気持ちを彼に抱いていたのだろう。


こんなにも愛おしい場所が、こんなにも苦しい場所になるなんて。

たくさんの荷物を抱えてバスに乗り込む後ろ姿が、この場所から彼が離れていくという現実を、嫌という程、わたしに突き付けた。

わたしは泣かなかった。
彼を困らせたくなかったからというだけではなく、距離でも何でも、ぜんぶ越えていくんだという、自分への覚悟もあったのだと思う。


一緒にいた時間より、離れた時間の方がずっと長くなった今も、離れた時間だけが長くなっていくこれからも、わたしはまだ、彼に会いたいと思う。

この名前のない感情を抱えて生きていくのだなぁと。毎年、毎年。